バッドフィンガーのこのアルバムはワインとブランディーとビールで
めでたく出来あがりました。 加藤ミカ
今年(1974年)の二月中旬にたった一人で羽田に白いジャケットを着たクリス・トーマスが来た。その頃の彼の最大のトラブルは、バッドフィンガーとジョン・ケールとミカバンドの三つのバンドをどの順番にプロデュースするかであった。この頃ジョン・ケールはスタジオをとっていた。でも、どういうわけかまず一番初めにミカバンドをプロデュースすることに彼はきめて、そして翌日の電報で次はバッドフィンガーをプロデュースすることにした。もちろん彼らのマネジャーのお手柄だと私は思う。
白いジャケットを着たクリス・トーマス が、和服に着替えた時
録音はミカバンドと同時に今年の二月から六月終りまでかかって出来上がったのです。四月にミカバンドを一時やめてアメリカはデンバーのコロラドにあるカリブというところでやった。もちろんシカゴなどのジャケットでおわかりのように、とてもきれいなところである。約一ヶ月のレコーディングのあと又日本へクリスはもどってきた。もちろんバッドフィンガーは全然終っていない。そしてその時、数曲のカラオケを主人のトノバンと聞いた。とてもいい曲だと思った。本当に。
カリブというところ のスタジオ(1974年当時)
そしてミカバンドのあと又、ロンドンのエアー・スタジオで再びバッドフィンガーのレコーディングが始まった。確か5曲か6曲しか出来ていなかったのを覚えている。私はひとりで、ロンドンへ六月に遊びに行ってみた。クリスからスタジオに来ないかといわれて、それ以来、バッドフィンガーのメンバーとすっかり仲よくなって毎晩スタジオでさわいでいました。日本もロンドンもミュージシャンはいっしょだなーと思った。と言うのは、彼らはまっ昼間からビールとブランディーをチャンポンにしたやつを飲みまくり、スタジオの中もミキサー・ルームもまるでバーにでもいったようにあちこちにビンがある。でも演奏の方はその方がむしろのりがあっていいようだ。
エアー・スタジオ (1975年当時)
ロンドンはパブがいっぱいあるから、メンバーは、クリスがピンポンする(他のチャンネルに音をうつす作業)間にすぐにパブに行ってしまうのです。ある夜、私とクリスで日本食を食べに行って戻ってみると誰もいない。エンジニアのビル・プライスがひとりいるだけ。いくらまっても戻って来ないので、じゃ三人でやってしまおうといって、クリスがピアノのダビングをして、私がクリスの代りにプロデューサーになって、ビルとわいわいさわぎながらやったことがある。
ビル・プライス ニルソンの Without You のミキシングをした時
メンバーはウェールズ・アクセントの英語で何がなんだかさっぱりとわからない。それにトミーなんかはいつもお酒でへろへろ、奥さんはドイツ人で二人の会話の50パーセントは "Pardon?” でまるで話にならない。奥さんはポルシェ911のタルガにのっていて、よっぱらい運転で飛ばしまくるのです。マイクは左ききでドラム・セットが全部逆になっているし、とても細いのでライヴの時用に毎日練習しています。おまけにミカの似顔絵なんか書いてくれて、それがそっくりで、一日中新聞のクロス・パズルをやっている人です。ジョイは目が大きすぎで、寝不足の日にスタジオに来るとしょっ中鏡で目の廻りを指で何やらかいているのかどうか知らないけど、そのことばかりを気にしている。昔、ゲイリー・ウォーカーとレインで日本に来たことがあってミカに川崎方面の話をさかんにしたがる。ああ思い出した、プロコルハルムのゲイリー・ブルッカーもそのことばかりをミカに話していた。
ウェールズ・アクセントの英語
ポルシェ911のタルガ 1974
川崎方面 のプロコルハルム 1972年初来日 東京・大阪公演(川崎方面を気に入る) 2003年再来日 東京・川崎・大阪公演
最後にピーと皆んながよんでいるピートは、二週間毎日逢っていても何も話さない人で、女ぎらいらしく男の方がいいのかなと思って他のメンバーに聞いたら、可愛いい女の子と一緒に住んでいるらしい。彼の作る曲はいつもいいのばかり、「ウィズアウト・ユー」を筆頭にどのレコードの曲も一番ミカの好きな曲ばかりです。
その話ぎらいのピーがある日、ミカに ”たのみたいことがあるんだけれど” といって、巾5センチはあると思われるノートを持ち出して、そしてこの曲を日本語に訳してくれっていうのでお手伝いをしたところ、クリスが何かトミーと相談していて、ミカバンドのあの最初の曲の様に話し声でちょっと読んでくれというので読んだところ、 "OK 録音したから" っていったの。あっというまの出来ごとで、これをシングル・カットし、アメリカ用にするとさわいでいるではありませんか。
ミカの朗読を入れる前の誰も知らない
ミカバンドのあの最初の曲
その次の日又メンバーがパブからよっぱらって戻って来た時、ジョン・ケールが遊びに来たのです。彼の奥さんと友達なので彼女のことを話したらケンカをして頭にきたのでここに来たという。そして三時間あまり息をつくひまもなく、クリスにアレンジのことをしゃべりまくる。その間メンバーは誰も口を出すひまもなく全員、あっけにとられてもちろんビルもびっくりしていたけど、ブラス・セクションのこととか話している。この時バッドフィンガーはジョンと初めて会ったらしく彼の迫力にすっかりとみせられていたようである。
もう一つ面白いことは、イギリスではサッカーがものすごい人気でクリスは "今日はまだ一曲も出来ないし今日はもう帰る" とわめいている。どうしたのかなとたずねると夜はテレビでサッカーがあるからレコーディングする人は誰もいないという。まさかと思ったら、本当にスタジオのテレビ室には、モット・ザ・フープルの連中もレコーディング中止でやって来たし、スパークスの連中ものぞいて行くし、一度もテレビを見なかったのは2スタでやっていたブライアン・フェリーだけで、あとはものすごい量のビールをのんで、トミーの奥さんはドイツ・チームの肩をもってイギリス・チームに負けたといってわめきちらして、気がついたらレコードは出来上っていたのです。
このアルバムはワインの一ぱいでものんで聞くと最高だとミカからおすすめしたいと思います。 かんぱい!!
ジョーイ談 (1991/02/09 来日時)
このジャケット写真は、ナイトクラブを借りて撮影したんだけど、ちょっと飲み過ぎちゃってね。トミーなんて見ての通り本当に酔いつぶれちゃうし。撮影後もみんなこの衣装のまま、本物の水兵さんになりきってパブへ飲みに行ったんだ。すごくおもしろかったよ。
ミカ談 (1995/03/06 ラジオ出演時)
アルバムジャケットには ジャパン の スティーヴ・ジャンセン の当時のガールフレンド シーラ・ロック が映っています。ハワイ出身の日系ですが、日本語はまるでダメでした。
週刊NY生活 2013年12月14日(土)
小田裕一郎の音ネタ日記33 数々の名曲を世に送り出した才能の塊クリス・トーマス
加藤和彦 クリス・トーマスが「次のミカバンドのアルバムをプロデュースしたい」
加藤和彦 クリス・トーマスと『黒船』に関係するいきさつ
中村俊夫 [宝島 1991年9月24日号 必殺! 名盤復刻人!!]
「素敵な君」の中に入っている「ノーワン・ノーズ」で、日本語のセリフをしゃべているのは元サディスティック・ミカ・バンドのミカさんだけど、彼女から聞いた話によると、ピート・ハム自殺の前日に彼に会ったら、完全にノイローゼ状態で、"俺をひとりにしないでくれ" と泣きわめいていたそうだよ。
福井ミカ, 中村俊夫 / ミカのチャンス・ミーティング (1988)
福井ミカ / ラブ&キッス英国 (1996)
YMO - Nice Age (1981) 1:20 から ミカのナレーション
「 ニュース速報。 [大麻不法所持によって逮捕され日本の留置場に勾留されているポール・マッカートニーこと] 22番は、今日で一週間たってしまったんですけれども、でももうそこにはいなくなって、彼は花のように姿を現します。Coming Up Like A Flower 」