バッドフィンガー通信 Badfinger

カテゴリ: ボブ・ジャクソン

 
母(ジャズ・シンガーの ヘレン・メリル Helen Merrill)の再婚相手が日本勤務になったことにより1968年6月にニューヨークから来日した アラン・メリル Alan Merrill は、セカンド・アルバム録音中に国外退去が決まったギタリストの代わりを探していたザ・リード The Leadに加入した。  [今回の記事とは直接関係ないけど、2012年に日本のことも含めていろいろと話している https://archive.org/details/AlanMerrillOnOutsightRadioHours] [こちらはBeatleg magazine 2015年2月号のインタビュー https://ludovicah.wordpress.com/2015/03/29/alan-merrill-in-depth-interview-with-beatleg-magazine-tokyo-japan/  レフト・バンクのオーディションに合格の話もしてる]
 
(Alan Merrill 加入前   Phil Trainer/Arbuckle Tamiya/Alan Hill/Mark Elder)
ザ・リード - 悪魔がくれた青いバラ Blue Rose (1968) 

(Alan Merrill 加入後   Phil Trainer/Arbuckle Tamiya/Alan Hill/Alan Merrill)
ザ・リード - すてきなバレリ (1969) 


1969 年夏、デビュー・シングルの悪魔がくれた青いバラ のボーカルだったベースの Phil Trainer の国外退去が決まり、彼は日本で半年間の活動を終了して帰国するイギリスのバンド Clinic に移籍し、それに帯同して日本を去った。このためザ・リード は解散。
 
実はこの解散後、アランは数ヶ月ロンドンに滞在してデモ・テープを作り、知人の紹介でアップルのニール・アスピノール Neil Aspinall と会っている。バッドフィンガーの欠員募集に合格してそのままロンドンに残るつもりで乗り込んだのだが、残念ながらすでにジョーイ・モーランドに決まったとニール から説明された。 このデモ・テープは イタリア経由でロンドンに渡っていた Phil Trainer (The Lead → Clinic に在籍中) と、彼が連れてきた Pick Withers (その後 Spring,  Dire Straits など) の協力でデッカ・レコードで録音したもので、テープを聴いたニールは気に入ってくれたが、アップルはもう新アーティストとは契約しないとのことで、日本に戻って活動を続けることにした。
 
アラン・メリル - ブラックバード (1970/08/22   ザ・タイガースの前座)

その後1973年までアランは日本で活動を続け、ロンドンへ移った。 
 
Alan Merrill 1976
1976年、既にイギリスで活動していたアラン・メリル率いるアローズ Arrows のTV番組 Arrows Show にトム・エバンスのドジャース Dodgers がゲスト出演した。
Arrows show # 25, season two, 1976 UK.  with The Dodgers (1976/11/30) 
この番組収録後、アランはトムと言葉を交わし、あの時のことを話した。ひょっとしたらバッドフィンガーで一緒にやっていたかもしれなかったんだね と。
Dodgers 1976 t
Dodgers 1976 bt
Dodgers 1976 tJ
 
 
Alan Merrill died on March 29, 2020 from Coronavirus. 
 

 
ツイッターとかフェイスブックみたいなものだけの経験だけど、有名な人の中ではボブ・ジャクソンが桁違いに反応してくれるというか相手になってくれるというか、気遣ってくれる人。あまり有名ではない有名人だからかもしれないけど。
 
ボブが昔いたバンドのことを書いた時などよくメッセージをくれたし、バッドフィンガーUKのツアーのことを書いた時もそうだった。これまでは英文とか写真があってそれなりに通じている時だけなんだろうと思っていたけど、きょうの返信は2日前の完全日本語文へのものだった。
 
[バッドフィンガーを全部集めようと決めた、1975年3月3日。
 
これへの返信が  thanks for sharing botfinger, have a great Saturday :)
特に僕が書いた文章についての返事ってわけじゃないけど、わざわざ日本語しか書いてないものへ返信したってことは、どこかに反応したと思うんだけど。 1975年3月3日? バッドフィンガー がBadfingerの日本語だとは知っているのか? オンラインで翻訳したのか? 謎。 
 
とにかくボブ・ジャクソンは、ファンへ気を遣ってくれている人です。 
 

 
中東のバーレーンで4歳の時に知り合ったふたりのイギリス人少年。ふたりの家はお隣同士で、一緒に小学校に通った仲。家族がバーレーンにあったイギリス海軍基地の関係者だったのか? 11歳の時、ふたりの家族は同時に帰国。 ひとりはリバプールに、もうひとりはコベントリーに戻って生活。
 
帰国後ドラムスを始めたコベントリーの少年(左)は ボブ・ジャクソン(右)のバンド、インディアン・サマー のドラマーとなった。
badge Ind
その後、1974年にボブがバッドフィンガーに加入。ピートの死でバッドフィンガー解散後、トムとボブが結成したドジャースに欠員が出たため、元インディアン・サマーのコベントリーの少年を加入させた。 

それ以降いくつかのバンドを経て、フォーチュンズのドラマーになっていたコベントリーの少年は、今度はフォーチュンズに欠員が出たため、ボブを加入させた。 

そして2003年暮れ、フォーチュンズのオフィシャルページに自分のブログを持っていたコベントリーの少年のもとに、1959年の帰国以降まったく連絡を取っていなかったリバプールの少年からのメールが届いた。そこにはコベントリーの少年が知らなかった驚くべき事実が書かれていた。 
 
 
1959年の帰国後、偶然にもドラムスを始めたリバプールの少年(右)は、いくつかのバンドを渡り歩き、 
トム・エバンス(左)のバンド、カルダーストーンズ のドラマーになっていたのだ。 
badge Cal
 
アイビーズにトムを引き抜かれたためカルダーストーンズが解散した後、リバプールの少年が加入した Curiosity Shoppe の Baby I Need You (Nov.1968 発売)

Curiosity Shoppe - Baby I Need You (1968)
Curiosity Shoppe
Harry Shaw(v), Billy Geeleher(d), Mick Rowley(g), Sammy Rothwell(k), Billy Hargreaves(b) 
 
この発売直前(October 25, 1968)、キャバーンで結婚前のリンダによって撮影されたポール・マッカートニーと一緒にいるバンドの写真が残っている。
http://www.meetthebeatlesforreal.com/2016/02/paul-with-owner-of-cavern-clubs.html
ドラマーになりたかったポールに自分のドラムを占領されているので、なんか気になる白シャツがリバプールの少年? 
 
 
リバプールの少年=Billy Geeleher 
コベントリーの少年=Paul Hooper 
 
ふたりは4歳の時知り合い、11歳までバーレーンで過ごし、リバプールとコベントリーにそれぞれ同時に帰国し、それぞれが後にバッドフィンガーに加入することになるトム・エバンスとボブ・ジャクソンのバンドのドラマーになった。 
 
すごい 幼なじみ。 
 
 
ポール・マッカートニーに関する バッドフィンガーの すごい 幼なじみ 2 に続きます。 
 すごい 幼なじみ 2 

 

 
現在、バッドフィンガーがアメリカとイギリスで同時にツアーしている。 呼び方、それぞれで統一しないと紛らわしいね。
Badfinger と Badfinger UK
Joey Molland's Badfinger と Bob Jackson's Badfinger
Badfinger と Badfinger
ジョーイの方が Badfinger US と名乗ってくれればわかりやすくていいんだけど。
 
 
10月14日のBadfinger UK の公演のレビューで、演奏した6曲がわかった。
 
1. カム・アンド・ゲット・イット
2. ジャスト・ア・チャンス
3. デイ・アフター・デイ
4. ウィズアウト・ユー
5. ベイビー・ブルー
6. 嵐の恋
 
30分だと6曲が限度かなぁ。 全部のヒット曲+ウィズアウト・ユー それ以外に1~2曲 と、ツアー前に言っていたから、それ以外の1~2曲は何かと思っていたら、ちょっと意外? でもボブ・ジャクソンが参加した1974年のツアーでもやっていた曲なので、意外じゃないのか。
 
固定以外の曲は毎回同じってわけでもないような感じだけど、よくわからない。 I Won't Forget You をやるんじゃないかって期待してる人が多いみたい。

 
10月10日のBadfinger US の演奏は 12曲で、そのうちのヒットした4曲がUKとかぶっているようだ。
 
 
 
(5人目来訪記念) 

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