1989年11月、それまでなかったバッドフィンガーに関する詳しい記事がゴールドマイン誌に掲載された。この8年後に発表される ダン・マトビナの「ウィズアウト・ユー:バッドフィンガーの悲劇」の原型ともいえるもので、著者はケント・グレイだった。 
 
ダンがバッドフィンガーの記事を書き始めたのは1977年で、最初は Hoopla というファンジンだった。その後 Trouser Press 誌にも書き、その時点ではそれらを基に 将来本にまとめる というようなことは考えていなかった。 そして1990年の初め頃、ケント・グレイという男から電話があった。 
Hoopla #6-8 Badfinger
 
ケントはその前年11月に Goldmine誌に The Strange Story of Badfinger という記事を発表していた。 
Goldmine #243 Nov 17, 1989
 
誰も知らなかったバッドフィンガー 1 
ザ・ストレンジ・ストーリー・オブ・バッドフィンガー   by   ケント・グレイ 
 
 
バッドフィンガーを記憶する多くの人々は、彼らのことを「1970年代にビートルズの加護によって登場したものの、いつの間にか消え去っってしまったポップバンド」と見なしている。しかしながら、これはまったく真実ではない。確かにビートルズは様々な方法でバッドフィンガーに協力した。しかし、それは彼らを第二のビートルズにしようという考えからではなかった。バッドフィンガーの音楽性はビートルズのそれと似ている。もちろんこれは、ビートルズがバッドフィンガーのために用意した思いつきや援助に対する免れることのできない当然の結果であった。しかしこのサポートにもかかわらず、バッドフィンガーはつまずき、そしてまごつきながら、次第に忘れ去れれていった。法律を巧みに利用し、そのぎりぎりのところであくどいことをする人々にとって、バッドフィンガーは絶好の餌食であり、彼らはまんまとその手にはめられてしまったのだ。以来何度となくバッドフィンガーは再結成するが、1981年以降、新しいレコードはリリースされていない。ここでバッドフィンガーの初期を知るため、1964年まで遡ることにしよう。 
 
1964年、ウェールズのスウォンジーでアイビーズというバンドが結成された。後のバッドフィンガーである。彼らは他のほとんどのロックバンド同様、音楽で有名にになり金持ちになりたいという夢を持ったティーンエイジャーのグループとしてスタートした。リーダーはスウォンジー生まれの17歳のギタリスト、ピート・ハムで、オリジナル・メンバーのうちピートだけが6年後にバッドフィンガーとして名声を得ることになった。彼は4歳でハーモニカを、そして12歳でギターを始めた。彼のギタースタイルは、兄ジョンがジャズバンドでトランペットを吹いていたこともあって、ジャズに影響されたものである。ピートはセミプロ時代、昼間はテレビの修理工をしていたが、テレビ修理は彼が望んだ職ではなかった。後に彼がフルタイムのミュージシャンになるため昼間の職を辞める決心をした時、両親との間に激しい口論があった。 
 
その他のアイビーズのオリジナル・メンバーは、ベースのロン・グリフィス、リズムギターのデビッド・ジェンキンス、ドラムスのテリー・グリーソンだった。テリーの在籍期間は短く、翌1965年8月頃にマイク・ギビンズと交代している。1949年生まれのマイクもスウォンジー出身である。ピートとマイクは親友となり、後にバッドフィンガーとしてその歴史の大半をともに過ごすことになった。マイクは海軍兵学校の生徒たちとトランペットを始めたのが音楽との出会いで、その後各地のユースサービスの巡回活動を行なっていた頃、トランペットからドラムスに転向したのだった。 
 
アイビーズは最初の2年間、ウェールズ地方のクラブで演奏活動をし、音とステージに磨きをかけた。彼らはクラブの広告の最下段、つまり小さなクラブなら2番目、少し大きければ3~4番目に位置されたが、これは彼らより上に書かれたムーディー・ブルース、フー、ホリーズ、ヤードバーズといったバンドがスタートした時と同様であった。
 
1966年のある晩、 アイビーズがダンスホールで演奏していた時、バークンヘッドから来たビル・コリンズという紳士に出会った。コリンズは以前ダンスバンドのピアニストをしていたが、この日はアイビーズと同じクラブで演奏していたモージョスというグループのローディをしていた。この時コリンズとアイビーズは友人となり、まもなくコリンズはアイビーズのマネージャーとなったのだ。 
 
1966年後半、アイビーズはウェールズを離れ、ロンドン、ダブリン、そしてリバプールのキャバーン・クラブなどでも演奏活動を始めた。翌年、彼らは様々な弱小レコード・レーベルの注目を集めようと試みた。そして実際にいくつかのレーベルから契約の話が持ち込まれた。しかし、アイビーズはこれらの申し出を辞退した。なぜなら、これらの契約は一時的なものであり、しかも彼らの希望であるレコードではなく、ラジオ番組に録音せねばならない条件だったのだ。この時期、彼らは多くのオリジナル曲を自身の貧弱な機材で録音していたが、彼らの希望は本格的な機材でのレコーディングであった。これらのデモテープの多くは、この2年後にレコード化された彼らのアルバムに大変よく似ている。アイビーズの音楽はビートルズの影響を強く受けている。しかし同時に、アメリカのソウル・ミュージック、特にカーティス・メイフィールドの影響もかなり受けているのだ。彼らは、ステージでは観客の好みに合わせ、様々なアーティストの作品を取り上げて演奏していた。1967年の末、アイビーズはレコーディングの可能性を求め、キンクスのレイ・デイヴィスのオーディションを受けた。しかし、何の結果も生み出されなかった。
 
1967年10月、デビッドが他のバンドに移り、彼に代わってトム・エバンスが加入した。1947年生まれのトムはリバプール出身で、全盛期のキャバーンによく足を運んでいた。もともと彼はエンジニアとして生計を立てるつもりであったが、1966年にリバプールのカルダーストーンズというバンドに参加して以来、他の道は捨てていた。トムのテナー・ボイスはアイビーズにぴったりで、それはハーモニーに広がりを与えた。また、彼の加入はバンドの作曲面に大きく貢献した。 
 
トム加入後、事態は急速に動き始めた。ビル・コリンズはアイビーズにデモ・テープを作らせた。それをロンドン周辺にばらまいたのだが、そのうちの一本がマル・エバンスに送られ、それがマルの手からポール・マッカートニーに届けられたのだった。マッカートニーはグループのサウンドに好感を持った。しかし、アイビーズのオリジナル曲にはそれほど関心を持たなかった。アイビーズはさらにデモ・テープを制作したが、これらのテープはマル・エバンスのサポートによって、ジョージ・ハリスン、ジョン・レノン、デレク・テイラーに送られた。テープを聴いたハリスンは、将来性も含めて非常にアイビーズを気に入り、アップルのグループ受け入れの力添えとなった。 
 
1968年4月、マル・エバンスの助力によってアップルはアイビーズと出版契約を、さらに7月にはレコーディング契約を締結した。この契約は同年11月15日、アイビーズ初のシングル メイビー・トゥモロウ b/w ダディは百万長者 の発売によって実を結んだ。A面はトムの手によるもので、表情豊かに歌われた美しく軽快な曲である。一方B面はトムとピートの共作による、心地良いポップ・ロック・ナンバーである。しかしレコード・チャートは良くなく、米国で67位に達したにすぎなかった。が、この不十分なセールスにもかかわらず、アイビーズはアルバムの制作に取りかかり、やがてLP 「メイビー・トゥモロウ」が完成した。ところがアップルは、このアルバムを英国で販売するにはあまりにも弱すぎると判断、小さな海外市場だけで発売することを決定した(アップルは米国での発売予定日の当日、米盤の発売取り消しを行なっている)。結局このアルバムは西ドイツ、イタリア、スペイン、そして日本で1969年に発売された。 
 
このようなアイビーズに対するアップルの厳しい仕打ちに、バンドは自信喪失しかかっていた。トムは「あの時は、口ではとても言えないほどがっかりしたんだ。僕たちはきっと、アップルのようなレコード会社にはふさわしくない、ダメなバンドなんだと思い始めてしまったんだ」と語っている。しかしながら、このアイビーズのアルバムは、後のバッドフィンガーのものとほとんど変わらない水準である。収録曲はワイルドなロックンロールからきれいなバラード、そして子供向けのナンセンス・ソングと多種多様である。中でも強力な作品は、ピートの アイヴ・ビーン・ウェイティングと シー・ソー・グランパ、そしてマイクの一風変わった シンク・アバウト・ザ・グッド・タイムスである。このアルバムのオリジナルテープが今でもまだ存在するのかどうかということは、アップルを除いては誰も知らないが、おそらく、もうないのであろう。このアルバムは過去数年の間に何度となく海賊盤化され、それはCDにさえなった(海賊盤はいつも使い古されたヨーロッパ盤LPを基にして作られている)。アップルのオリジナル盤は、見つけたとしても天文学的価格であり、最も手に入れにくい高価なバッドフィンガーのレコードである。 
 
アルバムに引き続き、アイビーズ2枚目のシングル いとしのアンジー b/w ノー・エスケイピング・ユア・ラヴ が発売された。このシングルがどこの国で発売されたかということに関していくつかの混乱があるが、少なくてもアルバムが発売された国々ではリリースされている(このシングル盤もまた、探し求められているレコードである)。ロンの作品である いとしのアンジー はアルバムからのカットで、おそらくリミックスが施されている。ノー・エスケイピング・ユア・ラヴ はトムの新しい作品で、完全に忘れ去られている。もう一度言うが、このアイビーズのレコードは極めて珍しいものである。 
 
1968年12月に英国のレコード雑誌 DISC誌で特集された記事に、アップルの失敗したアーティストの例として、アイビーズの メイビー・トゥモロウ のシングルが取り上げられた。そこには「アップルは所属アーティストのプロモートをほとんどしない」というトムの発言が引用されていた。しかし1969年になって、アップルは最も有望な4組のアーティストをプロモートするためのEPを制作することを決めた。このEPに収められた4曲は、ジェームス・テイラー、メリー・ホプキン、ジャッキー・ロマックス、そしてアイビーズのものである。この7インチ盤は英国の「Wall's」というアイスクリーム会社の宣伝のため使われた。アイビーズの曲は ストーム・イン・ア・ティーカップ というトムの作品で、かなり良いポップ・ロック・ナンバーであるが、このEPが制作されたことによって日の目を見たのである。このEPは使い捨ての宣伝用ということから、普通のレコードに比べてすり減らされやすいため、現存するレコードの多くにすり傷やノイズが目立つようである。 
 
繰り返して言うが、アイビーズは気分的にも金銭的にも非常に落ち込んでいた。そんな時、「アップルは低迷しているアーティストに冷淡だ」というロンの発言を引用した別の雑誌が出版され、報道された。ポールマッカートニーはこの記事を読み、アイビーズの境遇を知ることになった。当時マッカートニーは「マジック・クリスチャン」という映画のための作曲とそのレコーディングの内諾を得ていた。彼は既にフィルム用に カム・アンド・ゲット・イット を書き上げており、これをアイビーズが録音するようにと、ビル・コリンズに申し入れることにした。 
 
このマッカートニーの行為は、彼がアイビーズのプロデューサーとしてスタジオに入った時、ついに開花した。フィルムのプロデューサーもアイビーズの演奏する カム・アンド・ゲット・イット を気に入り、さらに映画のために2曲をレコーディングするよう求めてきた。そこで再びマッカートニーがプロデューサーを買って出て、さらに3曲の録音がされた。この3曲は ロック・オブ・オール・エイジス明日の風、そして映画には使われなかった クリムゾン・シップ である。マッカートニーが、スタジオ録音はもっとシンプルにすべきだと教えたので、これらのレコーディングはそれまでのアイビーズのほとんどの曲に企てられていた「多すぎる演出」を除去するのに役だったのだ。 
 
これらの録音と時を同じくして、アイビーズはバンド名を変えることにした。ピートはアイビーズという名前は「良すぎたんだ。みんな僕たちのことをアイビー・リーグか何かだったと思ったんだ」と語っている。ポール・マッカートニーとジョン・レノンはそれぞれ、Home、Prix というかなり風刺的な名前を提案した。ニール・アスピナルは Badfinger という名前を持ってきたが、これは明らかにブルース・ナンバーの バッドフィンガー・ブギ から取り上げたものである。
 
マッカートニーとのセッション後、ギブ・イット・ア・トライ、ミッドナイト・サン、ウォーク・アウト・イン・ザ・レインの3曲がマル・エバンスのプロデュースによって録音された。ミッドナイト・サンはコンサートでもよく演奏された曲である。これらの曲は、前出の4曲とともに、後に発表されるバッドフィンガーのファースト・アルバムで聴くことができる。ただし ギブ・イット・ア・トライは米国盤には収録されていない。 
 
この録音の直後、ロンはトムと争い、そして去っていった。彼にしてみればバンドから追い出されたようなものだが、残ったメンバーは、それはお互いの同意の上でのことだと言うだろう。そこでアイビーズはメンバー補充のオーディションを行ない、申し分のないギタリスト、ジョーイ・モーランドを見つけた。このためトムはベースに移ることにし、晴れてジョーイはバンドの一員となった。 
 
1947年生まれのジョーイ・モーランドはリバプール出身で、彼もキャバーンの常連だった。彼はカール・パーキンスのブルー・スウェード・シューズでロックに目覚め、ミュージシャンを目指した。1960年代の大半をいくつものバンドを渡り歩いて過ごしたジョーイは、既にレコードさえ出していた。彼の在籍したバンドは、プロフィールズ、マスターマインズマージーズゲイリー・ウォーカーとレインなどである。レインは1969年にアルバムを発売しており、数枚のシングルも含め、今ではこれらのレコードを見つけることは難しい。 
 
ジョーイの加入は、バッドフィンガーに良い結果をもたらした。もっとも、ジョーイが最初にアイビーズのレコードを聴いた時、それが彼の音楽スタイルとは違うということもあり、彼はグループ加入にためらいを持った。しかしバッドフィンガーは、原点に帰って再びロックンロールバンドを目指そうと考えていた。そしてジョーイは、何よりもロッカーであった。彼の加入の成果は早くも新生バッドフィンガー初のレコーディングに現れることになる。 
 
1969年12月5日、バッドフィンガーとして最初のレコードである カム・アンド・ゲット・イット b/w ロック・オブ・オール・エイジス のシングルが英国で発売された。米国では映画「マジック・クリスチャン」が封切られる2月に発売されると思われていたが、アップルはそれまで待つことができず、1月12日に発売している。このシングルはすべての点で成功し、米国で7位、英国で4位にまで上昇した。映画が封切られた2月11日、バッドフィンガーのファーストLP 「マジック・クリスチャン・ミュージック 」も発売されたが、これにはアイビーズのLP 「メイビー・トゥモロウ」に収められた曲も多数再録されている。このアルバムは米国では55位までしか上昇せず、英国では他のすべてのバッドフィンガーのアルバム同様、チャートインを果たせなかった。なお、このアルバムにはジョーイ加入後の録音曲は含まれていない。 
 
 
ゴールドマイン #243 1989年11月17日号   訳:上坂/今泉 (バッドフィンガー通信12号 1990年2月)
 
 
 
[通信13号] 誰も知らなかったバッドフィンガー 2 

 
[Magazine] Trouser Press #38 (May 1979) 

 
The Lye Berries - Sweet Josephine (1995)