誰も知らなかったバッドフィンガー 2 
ザ・ストレンジ・ストーリー・オブ・バッドフィンガー   by   ケント・グレイ  
The Strange Story of Badfinger Kent Gray
 
1970年初期、バッドフィンガーは3曲を録音している。ピートの 嵐の恋、トムの ビリーブ・ミー、そしてジョーイの フォトグラフで、すべてマル・エバンスによるプロデュースである。 フォトグラフ だけがレコード化されていないが、これは何らかの理由によってアップルに却下されたためである。バッドフィンガーは 嵐の恋 をシングル発売すべきだと考え、執拗にアップルに働きかけた。しかし実現までには長い時間と困難がともなった。アップルがぐずぐずしている一方で、バッドフィンガーは「ノー・ダイス」と名付けられた新しいアルバムのほとんどを録音し終わっていた。結局アップルから 嵐の恋 のシングル発売の許可が下りたのは「ノー・ダイス」発売のわずか一月前であった。その間にもバンドはジョージ・ハリスンに招かれ、彼のファースト・ソロ・アルバム「オール・シングス・マスト・パス」の録音に参加している。彼らはリズム・ギターとパーカッションで参加とクレジットされている。マイ・スウィート・ロード において卓越した12弦アコースティック・ギターをいかにも下手なようにかき鳴らしているのがピートだと伝えられている。この後、ピートとトムはバック・ボーカルとしてリンゴ・スターの 明日への願い の録音に参加した。 
 
これら元ビートルズのレコーディングにゲスト出演した後も、バッドフィンガー自身のレコードの発売許可は下りなかった。引き続きツアーに出されたが、この時にも彼らはまだレコード発売を待ち続けていた。このツアーは英国中を回り、その後アメリカに向かったのだが、タイミングはまったく悪かった。アップルは彼らが回ったあと 嵐の恋 をシングル発売(米:10月12日、英:11月6日)し、何のプロモートもしなかったのだ。しかしながら 嵐の恋 は米国で8位、英国で5位と大成功を収めた。米盤ではB面に 明日の風 が収録されたが、たぶんこれはアップルの指示なのであろう。
 
アルバム「ノー・ダイス」は1970年11月9日に米国発売され、28日に74位初登場、以降15週間チャート・インを続け 、最高28位に達した。実質的には、これが本当のバッドフィンガーのファースト・アルバムである。このアルバムでのピートは、アイビーズ時代に見られた幼さを脱皮し、磨きぬかれた作曲家として登場している。一方ジョーイも、彼のガッツあるロックンロールを見事にバッドフィンガーとしての新しいサウンドに溶けこませている。アルバムには 嵐の恋 の他、ピートとトム共作の ウィズアウト・ユー、ピートの ミッドナイト・コーラー と ウィアー・フォー・ザ・ダーク、ジョーイとトム共作の アイ・ドント・マインド、マイクの イット・ハッド・トゥ・ビー などの名曲が収められている。 
 
1971年はバッドフィンガーにとって混乱した年であり、彼らのレコーディング状況にもいくつかの疑問点が残る。まず最初に、彼らはジェフ・エメリックのプロデュースにより「ノー・ダイス」に続くアルバムの制作にかかった。しかしこのレコーディング終了後アップルは、出来上がったテープはアルバムとしてリリースするには十分ではないと決定した(よくある話)。これらの曲はピートの作品が少ないということを除けば、「ノー・ダイス」とほとんど同レベルのものであった。このセッションで録音された13曲中、ピートはただ1曲 パーフェクション を書いているだけなのである。この曲は他の数曲とともに再レコーディングされ、次のアルバムで発売されている。未発売のまま終わった曲も非常に良い作品で、ここでそれに触れる価値がある。たとえば、マイクの ラビング・ユー、トムの ノー・グッド・アト・オール、グループ全員で書いた アイル・ビー・ザ・ワン などである。ラビング・ユー は一度聴いたら忘れられない歌詞が印象的であり、アイル・ビー・ザ・ワン では素晴らしいカントリー・ロック風のギターが聴かれる。この未発表に終わったアルバムのすべての曲は、ひどい音質の海賊盤となって1988年に登場した。バッドフィンガーがアップルに残したレコードが再発売される時、これら未発売に終わった曲も一緒に発売されるのかどうかはわからない。 
 
これらのレコーディングは録音技術の面で不十分であるという理由から発売を却下したとアップルは言っているが、おそらくジョージ・ハリスンがバッドフィンガーの次作をプロデュースしたいと公表してしまったのが本当の理由であろう。 
 
ジョージ・ハリスンとピートはしばらく話し合った。そして初期バッドフィンガーが目指した「ロックの原点に戻る」という方向とは逆に進む結論に達した。次のアルバムを以前アイビーズが企てたように演出を多くし、それをより洗練された音にしようと思ったのだ。もっともこの時点では、ハリスンはこの方針で自分流にやり遂げることができる状態であった。そこで以前のテープは片付けられ、新たにハリスンをプロデューサーとしてレコーディングが開始された。バッドフィンガーはこのハリスンの行動を入り混じった感情で迎えた。もちろん彼らはハリスンがバッドフィンガーと仕事をしたがっていることを名誉に思った。が、一方、すでに録音したテープにも未練があった。しかしこのようなバンドの思いには関わりなく、アップルの共同経営者の一人であるハリスンは彼らの次作アルバムをプロデュースしようとしているのであった。 
 
最初に録音したのはピートの新しい曲、ネイム・オブ・ザ・ゲーム だった。この曲の初期バージョンにはホーンやストリングスが使われていた。これらは後に取り除かれて「ストレート・アップ」に収録された。アップルは当初このファースト・バージョンをシングル発売する計画だったが、同じくピートの デイ・アフター・デイ をレコーディングした時、ハリスンの気持ちは変わった。彼がプロデュースした残りの2曲は アイド・ダイ・ベイブ と スーツケース で、どちらもジョーイの作品である。スーツケース は彼らのライブでのスタンダード・ナンバーになっている。
 
この時期、ハリスンは友人のラビ・シャンカールからバングラデシュ救済のために手助けしてくれないかと頼まれていた。そこで、ハリスンはニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで慈善コンサートを開催することにした。彼は協力してくれるようにと多くのスターたちに呼びかけたが、その中にはリンゴ・スター、エリック・クラプトン、レオン・ラッセル、そしてバッドフィンガーなどがいた。バッドフィンガーはこの呼びかけに非常に驚いたがこれらの人々と一緒に参加できることを光栄に思った(バッドフィンガーは他の参加者の誰もが彼らに関心を持たないような無名の存在だった)。彼らは大喜びでハリスンの要請に応じ、ニューヨークへ同行した。
 
当初はバッドフィンガーも持ち歌を数曲披露する予定であったが、ボブ・ディランの参加が決定した時、この計画は変更になった。コンサートでは ヒア・カムズ・ザ・サン でピートがジョージ・ハリスンとギターのデュエットをしただけで、バッドフィンガー自体にはほとんどライトが当たらなかった。しかしバッドフィンガーに不満はなかった。それでも十分名誉なことだったのだ。コンサート終了後、ハリスンはこの模様を撮影したフィルムの編集などさまざまな準備に取りかかる必要があった。それもできるだけ早く仕上げねばならない。したがってバッドフィンガーのプロデュースを最後までできない状態であった。そこでハリスンはニューヨークで会ったトッド・ラングレンにバッドフィンガーのプロデュースを依頼したのだ。ラングレンは了承した。しかしバッドフィンガーはがっかりした。 
 
ラングレンはバッドフィンガーとの仕事をプロデューサーとしての強い権限を持って行なった。それまでのハリスンは熱意を持って彼らをサポートするようにプロデュースしたのに対し、ラングレンはすべてビジネスとしてプロデュースしたのだ。当然バンドとの間には摩擦が起こった。「彼は最初から4倍のギャラを要求したんだ」とはピートの言葉である。ラングレンとバンドの関係はうまくいかなかった。しかしそれにもかかわらず出来上がったのは一級品だった。このラングレンとのセッションでピートの ベイビー・ブルー と テイク・イット・オール、トムの イッツ・オーバー、ジョーイの スウィート・チューズデイ・モーニング といった優れた作品が生み出された。このセッションでのアウトテイクに ベイビー・プリーズ がある。これはピート、ジョーイ、マイクの共作でトムは作曲と録音に参加していない。さらに4曲、「ストレート・アップ」には収録されなかった曲がある。ドゥ・ユー・マインド、ヒーズ・ア・レギュラー、ザ・ウィナー、アイ・キャン・ラブ・ユーで、すべてジョーイの作品である。この内後半の2曲は後に「アス」に収録された。 
 
 
 
ゴールドマイン #243 1989年11月17日号   訳:上坂/今泉 (バッドフィンガー通信13号 1990年3月)
 
 
雑誌掲載3ヶ月後から、こんな感じで6回に分けて(12号から17号まで)バッドフィンガー通信に掲載したんだけど、それはこの記事の情報がすごかったということ。今読むと、「ふ~ん、そんなこと知ってるよ。ダン・マトビナの伝記本で読んだもん」ですんでしまいそうだけど、実はこの記事を書いたケントがダンの本誕生のきっかけとなっている。つまり、ちょうど僕たちがケント・グレイのゴールドマイン誌の記事を訳している1990年の初め、海の向こうではバッドフィンガーに関する非常に大きな出会いが起きていた。
 
 
「ダンさん、あなたが以前 Hoopla などに書いた記事を読みました。実は私、バッドフィンガーの本を書こうと思っているのですが、できれば資料提供などの協力をお願いしたいのです」  
 
ちょうど本職(レコーディング・エンジニア)のプロジェクトの合間で時間もあったので、ダンはケントを手伝うことにした。しかし、しばらくして二人の立場が入れ替わり、執筆はダンが引き継ぎ、ケントはインタビューやその文字化を手伝ったり、さまざまなアイディアを出してダンにとって大きな助力となった。 
 
 
ケントからの電話がなかったら、ダンの本は存在していなかったのかも。 
 
 
[通信12号] 誰も知らなかったバッドフィンガー 1 

 
The Lye Berries - Sweet Josephine (1995) 

 
Without You: The Tragic Story of Badfinger